平地会のあゆみ

大阪大学医学部産科学婦人科学教室の同窓会組織が平地会と命名されたのは吉松先生が教授に就任(昭和10年11月30日)した翌年、昭和11年11月9日(1936)のことであった。吉松教授が恩師である古武弥四郎名誉教授に教室の同窓会の命名を懇請したところ「平地」の2文字を示されたことに始まる。

平地は論語子罕編より「譬如平地、雖覆一簣、進吾往也」(学問のなす様が地を平らにする如く、根気と最後のひとかごの土盛に至るまで、注意力と忍耐力を要する)ことを諭したものである(詳しくは文末吉松教授「平地の弁」を参照されたい)。吉松時代に同窓会が組織化されたことが現在の平地会の隆盛の礎となり、その意義は極めて大きい。平地会以前にも同門会は存在し平地会に続いている。

平地会員名簿の最も古い会員は、明治18年(1885)の谷後 寿先生であり今から121年前になる。谷後先生は大阪大学医学部の前身である大阪府立医学校の出身であり、明治14年(1881)から同24年(1889)まで大阪府立医学校の校長であった、産科学・婦人科学を講じた吉田顕三先生の時代とピタリと一致する。

今年、大阪大学医学部産科学婦人科学教室開講125周年を迎え、平地会の歴史もその前身を含めると120余年となり、歴史の重さを感じざるをえない。しかも平地会発足70周年にもあたり、今回の記念行事は真に意義深いものがある。

さて、平地会はやむなく戦中・戦後の混乱期、活動が低下していた時代があったが、足高教授時代に至り、再び活動する平地会がよみがえり現在に続くことになる。まず、戦後中断していた会誌「平地」の復刊が昭和37年(1962)に行われ(平地1号)、年1回の総会も定着してきた。「平地」は当初不定期で、会報が随時発行されていたことが伺われる。倉智教授時代には総会は1月に定期的に開催されるようになり、谷澤教授時代には会誌「平地」は一層充実し、会員の動静、教室の活動や業績、関連病院、関連大学の活動も詳しく紹介され、会員の親睦はもとより様々な関連業務に役立っている。倉智・谷澤教授時代に定着していた臨床懇話会は、村田教授時代に更に発展し、年2回開催されるオープン クリニカルカンファレンスと合同し、各界の講師を招く他、教室、関連病院の臨床検討の場として会員の研修に大きく貢献している。

平地会の目的は当初会員相互の親睦と扶助とされていたが、その後、「学術の研修や業務の発展に対し相互扶助につとめる」ことが加えられた。足高、倉智、谷澤各教授が会長となり主催された過去3回の日本産科婦人科学会総会、村田教授が主催された世界周産期学会などでは、平地会が教室と一体となり、物心両面の協力を行ってきたのはご高承の通りである。平地会は各学術及び関連団体に協力し、役員の選出や他大学との連携に積極的に関与し、教室の活動が円滑に行われるよう努めている。

日本でも有数の永い、輝かしい歴史をもつ教室と平地会には、そのよき伝統に育まれた多くの立派な人材が謂集し、会員数として700余名を数えるに至った。

大阪大学のモットーとして、「地域に生き、世界に伸びる」ことが謳われている。産婦人科医療が困難な環境にあるなか、平地会は会員にとって誇りであり、大きな心の拠りどころとなる一方、教室と一体になり、国際的にも国内的にもリーダーシップを発揮し、産婦人科の学術及び医療の発展に貢献すると共に、会員相互のさらなる親睦を深めることが求められる。会員諸氏の絶大なるご協力を改めてお願いする。

平地の弁

論語子罕編第九よりとされるもの、子罕編は大体学問教育に関する章なり。今其全文を挙ぐれば下の通り、

子曰譬如爲山未成一簣止吾止也譬如平地雖覆一簣進吾往也
吉松信寶

大体論語は古典ですから一つの章に三、四通りの解釈はつけられて居る。孔夫子の真意は何処にあったかは研究家によってまちまちだ。
今茲に東大阿部教授の解釈を記して見よう。即ち口訳すれば孔夫人の門人は師に学問をすると云うのはと聞いたら子曰くたとえば山を築くようなものだ。あと一もっこうの土を運べばそれで完成すると云うまで来てそこで止めてしまうのは自分が決めるのだ。其出来上がらないと云うのはだれのせいでもない自分自身のせいだ。而かも山は完成せずそれ迄の苦労も何にもならなくなる。之に反して一方どんなに進み方はのろくとも不断に学問をして行くと云うのは、たとえば地面の凹凸を平らに直すようなものである。目に見えてははかどらなくとも、たとえ僅か一もっこうだけの土を運んで来てくぼみにあけてもそれだけ仕事が進むのは自分自身の努力の賜である。

此章の後半は句は特に難解とされて居るが、要するに学問は進むも止るも皆自分の一念の強弱にあるので、決して他人の関係したことではないと戒め、不断の努力こそ何よりも貴いものであることを教えたのである。前半の句は書経の「山を為すこと九仭功を一簣に虧く」と云う句に基いたものである。

余は本学産婦人科講座担任を命ぜられるに当り、恩師古武老名誉教授の命名されたものである。最初師は野生にちなみ松蔭会との名を選ばれたが、未来永劫に続く同窓会としての名を頂きたしと再度御願いして稍時を経て平地会と命名された。先生には何れの釈義をとられたかを察知し得ず、又之を質すもあまりに礼を失す、深く深く考慮の上命名された事は事実です。

何れにせよ此名言葉簡にして意重し。
猶後半の全文は一幅の軸として生に贈られ今猶座右にあり。

(昭和37年3月 平地会報復刊第1号より