3)平野俊夫、生命科学に真の意味の創造的研究は存在しうるか?(2000/09/11)
JSI Newsletter 8巻第2号(通巻15号)掲載の吉村昭彦氏の“独創性とは何か、あるいは優れた仕事を成し遂げるには何が必要か”をめぐり“独創的研究とは?”という命題をめぐり熱のこもった議論が巻き起こっています。先ず本庶先生が、歴史的事実を引用され、大変洞察力のある、且つ説得力のあるご意見を投稿なさいました(「独創的研究とは何か」コメント番号1、2000/09/08)。本庶先生の研究哲学に接し、深い感銘を受けました。皆様方も多くのかたが大変共感されたことと思います。私も吉村氏の<みなさん大いに“流行”を追いましょう>というくだりには少なからず違和感を覚えた一人ですが、氏のコメント番号2(2000/09/11)にあるように、彼の言わんとする真意が別の点にあることも、感じ取ることができました。また”努力は無限”という言葉に、吉村氏の人柄がにじみ出ており大変興味深く読みました。
本庶先生いわく、<独創性とは、「独自の考えで始めること」というのが極めて当たり前の解釈である。> また広辞苑にも<模倣によらず、自分ひとりの考えで独特のものを作り出すこと>とあります。また、<独自の新しい考え、思いつきで、ものごとをつくり出すこと>(研究社国語辞典)、とあります。更にThe American Heritage Dictionary をひも解くと、
original:
1. Preceding all others in time; first. 2. a. Not derived from something else; fresh and unusual:*an original play, not an adaptation. b. Showing a marked departure from previous practice; new:*a truly original approach. 3. Productive of new things or new ideas; inventive:*an original mind. 4. Being the source from which a copy, reproduction, or translation is made. と記述されています。
すなわち“独創性、Originality”とは、時間的、空間的に存在していなかったもの(音楽、絵画、文学、あるいは思想や、科学における理論、などが当てはまる)を、新たに創りだす事であると考えられます。では生命科学における“独創性”とはいかなるものか?この点に関する本庶先生の考察は素晴らしく、先生の研究に対する哲学がよく伝わってきますし、非常に共感がもてる点が多々あります。
また次の下りには本庶先生の一研究者としての素朴な人間性が伝わってきます。<そもそも研究とは、好奇心からスタートするものである。“なんだろう?”“不思議だな?”という自らの問を心行くまで追求することが、研究者の楽しみではなかろうか。--------「流行を追う」ということは、自らの中に何かを知りたいという好奇心が希薄であるせいではないのであろうか。>
この素朴な好奇心こそがすべての独創的研究を世に生み出した原動力ではないかと思います。それは名誉欲や、成功を追及する欲望とは、かけ離れたものです。もちろん二重ラセンの発見物語にもあるように、ただひたすらノーベル賞受賞に代表される名誉欲の追及に終始している研究者の姿もあることに、寂寞たる思いを禁じえないのは私だけでしょうか? 学問もしょせんは人間が行うものである以上は、研究成果の結果として、受賞などで世間から評価されることは純粋に嬉しいものです。また名誉欲や競争心が、あるときには強力なドライビングホースとなり、研究の進展に役立つことも否定は出来ませんが、これらはあくまでも学問の本質ではないことを心しておくべきです。私としてはこの“素朴な疑問”に更につけ加えて、“なぜ病気が起こるのか、どうしたら病気を治すことが出来るのか?”と言う、これも疑問の部類ではありますが、より医学的な人間臭い発想も研究のドライビングホースとしては大事にしたいと考えています。
本庶先生のこの最後の一節には大変深い共感を覚えるものです。
私は以前、JSI Newsletter 7巻第1号(通巻12号)に“私のセレンディピティ体験:インターロイキン6との出会い”というエッセイのなかで以下のようなことを書いたことがあります。
<------すべての自然現象の原理や、関与しているさまざまな分子やその作用機構は、すでに存在し、整然とした機序でわれわれの目の前に厳然として存在しているのであるが,われわれ人間には観えないだけである。創造的学問とはいかにあるべきかよく論議されるが、こと自然科学において創造的研究は存在しないと私は考えている。われわれはただ一枚ずつカードをめくり、カードの下に潜んでいる事実を見きわめているだけであり、そこにはわれわれの創造の入り込む余地などあろうはずもない。(あるとすれば)問題はカードのめくり方である。理論的に行うか,まったくデタラメに行うか、ほかの研究者がめくったカードのまわりを探すか, あるいは誰もが関心を示さない隅っこのカードをめくるかである。-------------------->
このエッセイにおいて、こと自然科学においては“真の意味において”、創造的研究は存在しないのではないか?とあえて問いかけました。これはいまでも私が抱いているごく素朴な実感であり、自然が創造した生命を、創造された生命の一つにすぎないヒトが生命科学において何か創造的な研究を成し遂げるなどということは私から見れば、人間の尊大さの現われであり、自然の偉大さへの挑戦と受けとめています。あくまでも我々は、こと自然科学においては、芸術などのように“真の創造性”を求められる分野とは異り、すでに厳然として存在している自然の偉大なる摂理を、秩序ある自然の営みの姿を、正確に明らかにすることであり、ましてや私たちが自然の摂理を新たに創造出来ようはずもありません。このような観点から、今一度、生命科学における“独創的研究とは”を問いかけると、この自然の摂理を明らかにするための、それぞれの研究者の取り組み方そのものが、研究のプロセスそのものが、研究者の“独創性”であり、最終的に今回問題になっている、いわゆる“独創的な研究”、すなわち“今まで事実として人間の前に見えていなかった自然現象(それに関与する分子の存在やその役割も含めて)を、人間に見えるようにすること”を成し遂げる為に、研究者固有の“独創性”は、最も重要なことではないかと考えています。
この夏、私は南アルプスの仙丈岳(標高3032m)への登山中に、登山と、研究の大きな相違点に思いを巡らしました。山登りも、研究も目の前の一歩、一歩を確実に登ることが要求されるという点は同じです。しかしながら、山登りにおいては、今自分が登ろうとしている山が300メートルの山なのか、5000メートルの山なのか、あるいはその山が世界のどこに位置しているのかは、地図に明記されています。また地図には山頂へ至る道が明記されており、何日かかろうが、とにかく一歩、一歩登る努力さえ惜しまなければ、すなわち吉村氏の言うように1年360日働けば、いつの日にか、300メートルの山は勿論のこと、5000メートルや8000メートルの山でさえ登ることは、それなりの準備をすれば、不可能ではなく、予見できることです。すなわち山登りにおいては、登山者がどの山に登るかを決めることが、その登山者にとっての独自性で有るわけです。一方、我々が行っている、生命科学の研究においては、1)登るべき山がどこに存在しているのか、2)山の存在は知られていても、その山の高さは何メートルなのか、3)頂上に至るための道を、どのようにして、どこに創るべきか? 4)いま歩んでいる道が頂上に向かっているのか、あるいは深い谷底に向かっているのか、はたまた、ぐるぐる頂上の周りを回っているだけなのか、5)高峰と思って登った山が、苦労して頂上に立ったとき、初めてそれが300メートルしかない低山であり、その先には何もないことが明らかになるのか、それとも5000メートルもある高山であるだけでなく、更に頂上から、別の予期せぬ新しい高峰が聳えているのが見渡せるのか?にたいする回答は、すべて研究者の判断と研究結果にかかっているわけです。あるいは人間の能力を超越しているのが自然の摂理であり、いかなる天才にも、研究結果がでて初めて目に見える真理が隠されているのも事実であり、だからこそ生命科学の研究は興味が尽きないともいえます。また、だからこそ、吉村氏をして”努力は無限”という言葉が好きだ、と言わしめたのだと思いますし、吉村氏に深い共感を覚えます。勿論、先人の多くの研究者の努力によって、多くの山の存在や、おおまかな高さや、その頂上への道が一部明らかになっていることも事実ですが、これらの疑問はいかなる優秀な研究者と言えども完全に予知することは不可能です。勿論本庶先生のおっしゃるように、<そこに研究者の嗅覚が非常に重要な要素を占めることも否めない>のは事実であり、単なる運ではなく、その研究者の実験結果を事実として正確に観るとともに、優れた考察力と、そして何らかのプラスアルファとでも言うべき、研究者自身の素質が研究の結果を大きく左右することは勿論ではあります。そして今回問題になっている、いわゆる“独創的な研究”とは、研究者が、登る山を決めるに至ったその思考過程、あるいはその山の登り方そのもの、そして登り詰めた山の高さがいくらであったか、そしてその山の先に更なる未知の未踏峰が大きく聳えているか、これらをすべてを高い次元で満たした研究が、生命科学においては、“独創的な研究”として称賛されるべき研究ではないかと考えています。そしてこの最後の意外性----セレンディピティ----はいかなる天才にも予見しがたいということです。
私自身は、いわゆる流行を追いかけることはしたくありませんし、もともとひねくれているのか、人の歩いていない山道を、最初からこつこつと歩くのが好きです。私自身も、本庶先生の6C, 3Cは研究者にとって、大変重要な事であると思います。特にすでに好奇心(問題意識)を持って開始した研究にとっては、飽くなき“挑戦”と研究の“持続”は研究者にとっては重要な事だと考えています。私の研究の原点は、JSI Newsletter 7巻第1号(通巻12号)でも書きましたように、私の恩師の故山村雄一元大阪大学総長の有名な言葉である
吉村氏がコメント番号2の後半で、いみじくも指摘されているように、ヒトゲノム計画もほぼ終了した今日、また種々のテクノロジーが急速に発展した今日、果たして、今までの生命科学の発展の原動力になってきた従来の研究手法が、あるいは研究に対する我々の発想が、今後も引き続き生命科学の次元を越えた発展に寄与しうるかという素朴な疑問、何か我々の周りを取り巻く生命科学に対する閉塞感----これらを打ち破り、21世紀の更なる生命科学の発展のため、今一度“独創的研究とは”という問い掛けを自らに自問自答することにより、次の新たな次元の展開のために何らかの起爆剤になればと考えています。勿論<JSI Newsletter 8巻第2号(通巻15号)>の<熊ノ郷氏による”現代のロゼッタストーンを前にして思うこと”>にありますように、若い研究者は、やはり視線を遥か彼方にはせていることを心強く思います。
すでに掲載されている公開討論会の議論や過去のJSI Newsletterの内容に基づいての議論も、勿論大いに歓迎いたしますが、これらとは関係なくとも、独自の、自由な、率直なご意見をお待ちいたしております。特に21世紀をになう若い研究者からの忌憚のないご意見をお待ちいたしております。
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