ネットによる公開討論会”独創的研究とは”

平成12年9月8日ー12月31日(開催期間延長しました)

参加者:研究の専門領域を問いません。学部学生、大学院生、一般の研究者など、学問研究に従事しておられる全ての方。若い方の積極的な参加を期待しています。免疫学会会員以外の方からの参加も大いに歓迎いたします。

公開討論会”独創的研究とは”目次ページに戻る


4〕高浜洋介、何のための「独創性」か?(2000/09/14)  

 まずはこの度の独創性に関する一連の議論を推進されてきた諸先生に敬意を表したいと思います。ある意味では口にするのが億劫になりがちなテーマであるにもかかわらず、敢えて公開討論として取り組もうとする姿勢に、たとえ互いに異なる視点があろうとも、いずれもよき後進を育成しようとする先達としての情熱を感じるからです。

 「独創的な研究とは何か」というこれまでの議論を自分なりに咀嚼しつつ、以下、多少論点を移してしまいますが関連して考えることを申し加えて、更なる議論の糧にしていただければと書き進めたいと思います。

 今回の公開討論において平野先生は、「自然科学においては創造的な研究などありえない」としたうえで「自然の摂理を明らかにするための、それぞれの研究者の取り組み方そのものが、研究のプロセスそのものが、研究者の“独創性”である」と発言されています。私は、この発言から窺われる先生の『自然の摂理への崇敬と謙譲』および『科学に対する真摯で謙虚な姿勢』に心から敬意と同意を表します。同時に、その論旨を心で反芻するにつけ、“独創性”がこれまで討論されてきたようなものであるならば、“独創性”に限局した論議よりも、それぞれの研究者の「研究に対する取り組み方」を論ずることのほうが、われわれ科学者にとってより有益ではないかと考えます。

 すなわち、これまでの議論でしばしば取り上げられたように、“独創性”という切り口は、程度の差こそあれ研究成果に対する社会からの評価と不可分なものとして語られます。本庶先生の20年経っても残る研究に関する考察しかり、吉村先生のノーベル賞に関する引用しかり。しかし、もしもそのように“独創性”が第三者の評価によって決定されるのであるならば、本来的にそれは研究者自身にとって最重要の考察課題ではないはずです。個人の知的活動そのものである研究を生み出す力とは、魂の根底から沸き上がってくるうねりの発露であるはずです。岡本太郎氏にまねて「研究はバクハツだ」!

 もちろん私たちは誰でも、内面的にも外面的にも、他者に自分がどう見られるかということを気にしますし考えます。それは社会に生きる者として必要で重要な、配慮であり考慮です。しかし、私たち人間は、良くも悪くも明日を予見することができません。そんな人間の行為である科学研究の成果に対する評価は、最終的には後世に任さざるを得ませんし、任せておいていいことだと思います。私たち研究者は決して研究評論に長けた歴史家を兼ねる必要はありません(もちろん兼ねるひとがいてもいいのですが)。後世の評価が同時代の評価と一致しない人物は、ジェンナーやコペルニクスといった研究者をはじめとして、チャイコフスキー、ゴッホ、更にはイエスキリストを挙げるまでもなく史上枚挙にいとまがありません。また、優れた評論家が優れた芸術家や研究者と一致しないのも自明です。このように、“独創性”という名の下に、研究結果についての評価を必要以上に研究者が忖度することは、むなしくはかないことです。少なくとも私には、流行の趨勢をみながら「売れるもの」を分析して提供しようとする小室哲也の結局ワンパターンでしかない音楽は空虚にしか響かず、ワンパターンといわれようとも好きなことをやっていたら時代にも適って「売れてしまった」サザンの音楽が心に届きます。

 ですから、丹精込めて渾身の力を振り絞って研究活動を進めようとする個々の研究者にとっては、心のうちに秘められた「説明不能のわいてくるバクハツ」をいかに見つめ吟味し練るかが大事なことでしょうし、もしもこの「うちなるもの」を社会へと還元して伝えようとするなら、それをいかに「説明可能なことば」へと翻訳するかが重要なのだと考えます。その作業が、「私は何のために科学研究をしているのか」といった、個人的な研究に対する姿勢をあぶりだそうとすることに他ならないと考えるのです。研究は個人個人の知的活動ですので当然、「何のための研究か」という問いは、個人個人の研究者が常に考え、育み、成熟させていく必要があります。指導的立場にあろうとする研究者であればなおさら、後進研究者の参考に供するために「自分は何のために科学研究をしているのか」という問いに明確に答える責任があると思います。それを明確に示すことこそが、その研究者の存在責任とまでいえるのではないでしょうか。逆に、自らの姿勢を考察も表明もせず、ただ表面的な流行を追いかけることしかしない、研究者と思いこんでいるひとがいるとすると、そのひとの活動はたとえ同時代的には成功を収めることがあっても、本質的にはむなしく尊敬に値しないと思います。

 かつて柴谷篤弘博士は「私にとって科学とは何か」を著しましたが、この問いにどう答えるかということこそは、ある人が科学者として生きようとするとき自分に問いかけなければならない必須の考察点であり、更に言うならば「私は科学者として何を人生の目標としているのか」という問いや、つまるところは「私はなぜ生きているのか」という問いに、どのように答えるのかということこそが、その人の科学を含めた人生に対する姿勢を端的に表すものだと考えます。このように、私には「自分自身の研究に対する取り組み方そのもの」を問うことのほうが、少なくとも「他人が独創性を認めてくれるかどうか」を心配するよりも、研究者にとってうんと大切なことに思えます。

 さてここまで研究に対する取り組み方が重要だなどと言ってしまうと、小生自身の研究姿勢をも明確に言葉にして表明しておく必要があるかと思います。私のごとき未熟者の研究姿勢ですのであまり参考にもならないでしょうが、いちおう余談程度に「私のなかにわいているもの(ムシではありません)」を言葉にしようと考えた私の研究姿勢は、以前よりすでに研究室のウェブサイトのなかでも公開しているとおり、「生体のあらたな仕組みを解き明かしていくことによって、人類の知的財産にすこしでも貢献したい」というものです。なんとものうてんきで、平凡に見えるものかと思いますが、これこそあまり普段公の場では語る機会のない、小生の正直な心情吐露です。「生体のあらたな仕組みを解き明かしていく」という部分は、この天地と生物を創った創造者(神)への崇敬と讃美と言い換えることができるでしょうし、「人類の知的財産にすこしでも貢献したい」という部分は、理科好きの矜持としてばかりでなく、自然の摂理を喜び楽しむ職業を享受させていただいている社会への恩返しの気持ちも含み、もう少し泥臭いことですが、病める同胞・家族への愛の表現を含んでいるつもりでもあります。

 上のパラグラフのような、ほんとうに個人的な心情を公開するのは、小生のようなものにとってすら、ずいぶん蛮勇を要することです。今こうして書いている最中も「こんなカッコワルイことをわざわざネットで公開したくないなあ」と感じます。某先輩に指摘された表現ですが、人前でパンツを脱ぐようなスースーした気分すらします。しかし、個人的な研究姿勢を明確に説明しようとすることは、とりわけ後進研究者に対して重要だと考えますし、更なる議論のこやしにでもなればとあえて青臭い「告白」を公開した次第です。ちなみに、もっとカジュアルな後進へのメッセージは「私にとって大学キャンパスとは何か(キャンパスアウトローへのエール)」と題して、既にウェブ上に公表していますので興味のある方はご覧下さい。

 どんなひとにも違った顔の表情があるように、それぞれの研究者の研究に対する姿勢は多様でしょう。だからこそ、多様で大胆な科学研究が生まれ得ます。しかし、研究者と称するひとりひとりは自分自身の研究意義をみつめる必要があり、小生も更に自らの研究姿勢を見つめ、練り磨いていきたいと思います。と同時に、人間の個性とその多様性について、分析を容易には許さない「わきあがる興味」を持っているからこそ、自己とは何か、多様性形成の秩序は何か、といった課題に実験生物学的手法から取り組むことのできる免疫学に魅了されているのだと自己分析しております。

 最後に、今回の文章について、「少々優等生的に過ぎるなあ」とか、「しかしここまでの論調を考えるとそれもしゃあないなあ」とか、暖かくも厳しいコメントを頂いた諸氏に感謝します。次はもうちょっとオモロイモン書くようにしたいです。


公開討論会”独創的研究とは”目次ページに戻る 



免疫シグナル伝達目次にもどる

免疫学会ホームページ

免疫学会ニュースレターホームページ

平野研究室ホームページ

斉藤研究室ホームページ

烏山研究室ホームページ

義江研究室ホームページ

米原研究室ホームページ

黒崎研究室ホームページ

渡邊研究室ホームページ

桂研究室ホームページ

徳久研究室ホームページ

宮坂昌之研究室ホームページ

高津聖志研究室ホームページ

西村泰治研究室ホームページ

阪口薫雄研究室ホームページ

高浜洋介研究室ホームページ

吉村昭彦研究室ホームページ

鍔田武志研究室ホームページ

中山俊憲研究室ホームページ

他の関連サイト

インパクトファクター