在任期間:平成13年〜平成22年
川瀬一郎は昭和22年滋賀県八日市市に生まれた。昭和46年阪大医学部卒業、当時山村が教授を務めていた第三内科に入局、国立がんセンター病院肺腫瘍内科での勤務(昭和48〜53年)を命じられ肺癌診療の道を歩むようになる。大学の壁を越えて設立されたがんセンターの方式は当時まだ珍しく、活気と競争、緊張感にあふれていたという。昭和55〜57年米国フレッドハッチンソン癌研究センター基礎免疫部門留学、昭和57年阪大第三内科に戻り、肺癌の診療、癌免疫の研究に取り組んだ。平成4年講師、6年大阪府立羽曳野病院(現大阪府立呼吸器・アレルギー医療センター)肺腫瘍内科部長として転出したが、平成13年出身教室に教授として呼び戻された。
川瀬は臨床一筋に歩んできたが、癌の免疫療法で学位を取っている。第三内科山村の開発した癌免疫賦活剤N-CWSに川瀬の作成した抗腫瘍モノクロナル抗体を併用すると治療効果が増強されるということを証明し、癌に対する抗体依存性細胞障害(ADCC)の有効性を見事に立証している。阪大講師就任後は、付属病院が中之島から吹田地区移転の際に臓器別診療科別再編に努め、新病院では病棟・外来から講座名は消して診療科名で統一した。羽曳野病院時代は進行肺癌の在宅医療を厚労省と幾度も交渉の末に実現し、緩和医療の充実は現在も引き継がれ伝説となっている。
第三内科教授在任中は、大学独立法人化、内科系科再編、新臨床研修制度など、大学医局を取り巻く環境が大きく変わった時期であったが、教室は川瀬の明るい性格で乗り切ることになる。平成16年度より2年間内科系科長として診療科別講座再編の中心的な役割を果たした。これまで総合内科として発展してきた第三内科は平成17年に呼吸器と免疫アレルギーを担当する内科として編成されたが、他科に異動となった旧第三内科教室員に対しては細かな気遣いを示していた。付属病院においては、診療看護倫理委員会および保健医療福祉ネットワークを設立し、終末期医療に関する阪大病院コンセンサスの策定、病診・病病連携の推進に貢献した。平成19年度からは、副病院長として労務管理、リスク管理、医療クオリティーを担当。特に医療事故は阪大病院の特性として重症例でのトラブルが多く、また終末期医療の問題など幅の広い内容のため猛烈に忙しい日々であったが、患者側の人たちと話し合う機会を幾度となく設け、真摯な姿勢でお互い納得できるかたちでおさめた。阪大病院が円滑に運営されている裏では、川瀬の人柄が頼りにされていたのである。
川瀬は教授として多忙な中でも、毎週研修医向けに胸部レントゲン読影指導の時間をもうけた。また、呼吸器内科の講義枠のほとんどを担当し、大阪弁でジョークを交えてまず笑わせ、学生の気を引いた後、臨床経験に基づいた重要点を押さえながらの講義は楽しくわかりやすいと人気があった。こうした川瀬の明るくエネルギッシュな人柄は学生には親しみやすく、彼らを引きつける魅力があった。川瀬が山村に憧れて第三内科へ入局したように、今度は川瀬を慕って医学生が集まって来たのである。川瀬は何事も決断が早く、明確な指示を医局員に与える一方、医局のカーペットの埃を一番に拾うなど細やかな心遣いにも溢れていた。
平成22年、大阪府立呼吸器・アレルギー医療センターに戻り院長に就任、現在に至る。 |