6)平野俊夫、独創性を育む研究環境の整備が急がれる、(2000/09/19)
高浜さんの、-------<私には「自分自身の研究に対する取り組み方そのもの?を問う ことのほうが、少なくとも「他人が独創性を認めてくれるかどうか」を心配するより も、研究者にとってうんと大切なことに思えます>-------のくだりは、大変感じいる ものがありました。やはり研究者にとっては、まわりにこだわることなく、自分自身 を見つめていく、自分自身を追及することが、最も自然なことであり、研究者の本懐 なのでしょう。そこには、社会から、研究結果が、どのような評価をうけるかという ファクターは全く存在しないというのが本来の姿ではないかと思います。そうする と、高浜さんの意見のように、------<もしもそのように“独創性”が第三者の評価 によって決定されるのであるならば、本来的にそれは研究者自身にとって最重要の考 察課題ではないはずです。>-----本来、社会的評価を内包している、いわゆる”独創 的”かどうかという判断は、本質的なものではない、研究者と社会が対峙する過程で 必然的に発生してきた概念であると言うことも出きるかと思います。
そもそも、学問 というのは、昔は趣味であり、宮廷や金持ちのパトロンの庇護のもとに、あるいは財 産家が自ら、社会に何の役に立つかわからないような、単なる知的好奇心(人間が人 間であるがゆえの、高浜さんがおっしゃる----魂の根底から沸き上がってくるうねり の発露------、人間であることの証明みたいなもの)を満たすために、行われていた わけです。当時は公的な科学研究費の助成は無かったわけですし、職業としての研究 者もいなかったわけです。したがって社会的評価の必要もなかった。現在の研究環境 では、必然的に公的な研究費の助成を受けており、研究者はすべて職業として研究生 活を営んでいる。したがって研究結果の評価なる、”怪物”が”必然悪”として、顔 を出しているわけで、本来あるべき学問の姿をねじ曲げていると、いうこともできる かもしれません。まさに本庶先生の-----<そもそも研究とは、好奇心からスタートす るものである。“なんだろう?”“不思議だな?”という自らの問を心行くまで追求 することが、研究者の楽しみではなかろうか。>-------- というのが研究の本質ではないでしょうか? 勿論、私は、このような好奇心のみならず、病気の原因やその治療法を開発したいという医学的な興味や電球を発明して世の中のために立ちたいというようなことや、社会的使命を果たすというようなことも研究のモチベーションとしては成り立つと思います。何れにしてもこのような研究者それぞれに異る内なるモチベーションによってなされる科学研究にあっても、結果として、社会から認められる、称賛される、あるいはノーベル賞に代表される賞を受賞するという、何らかの社会からの評価、この評価に喜びを見いだすのも、人間としての科学者にとっては極く自然な行為ではないかと思います。極く卑近な例が、私たちはなぜ研究結果を論文として発表するのでしょうか?もし知的好奇心を満足させるためだけならこのような学会発表や、論文発表にはこだわらないはずです。もちろん論文発表をすることにより、興味を共有する他の研究者と意見交換をし、さらに自分の研究を発展させるという、いわば知的好奇心を満足する、あるいは他の研究者と討論することによって、そのことが自分自身の知的好奇心を満足させるという側面も有りますが、一方では、論文発表により、しかも出きるだけ権威のあるとされる超一流誌に論文を掲載することを一般的に研究者は求めますし、論文が受理されると非常に満足感を覚えるのが極く普通の研究者の姿です。これはやはり研究者が心の中で評価されることを欲しているからだと思います。評価されるということに喜びを見いだすのはなにも研究者だけではなく、人間ならだれでも普遍的に抱く感情ではないでしょうか。ただ、あまりにも評価のみを追及する、あるいは他の研究者との競争のみを追及し、自分自信のモチベーションの希薄な、本末転倒になっているとしか思えない研究者の姿には寂寞たる気持ちになるのを禁じえませんし、いかにその研究者がやったことがたまたま学問的に評価が高いことであっても、そのような研究者に、私は何の尊敬もはらいたくも有りません(研究者にとって大事なことは、なぜその研究をやりたいかというモチベーションであり、研究のプロセスであり、結果も含めてすべてを高い次元で満たした研究が独創的、評価に値する研究だと思います)。
今日、職業としての研究者、あるいは公的な資金を使用して研究している我々一般の研究者にとって、社会的な資金に頼って研究をやっている以上、評価は必然的なものとなって研究者の前に立ちふさがります。ここにいたって、評価をどうするかが、国のレベルで、将来を論じるときに大変重要な要素になります。勿論人間がすることですからまちがいも有ればわからないことも有ります。単純に考えれば、独創的な研究であれば有るほど、その本当の評価には時間がかかるものでしょう。一年で評価される研究よりも、20年後にやっと評価される研究の方が、独創的であると考えられます。あるいはコペルニクスの地動説のように、研究者の死後に初めて評価される研究はもっと革新的で、独創的で有るということが出来ます。------科研費の申請、毎年の研究報告、あるいは研究評価、すごくすごく偉く見える評価委 員、その前で、研究者の知的好奇心は無残にも”ちぢみあがる”。------ヒアリング の会場で、審査委員の一人が、”そんな研究のどこに意味があるのか!!”と、詰問する。-----ただ為す術もなく青ざめている一人の小さな研究者。-----その研究者の小 さな小さな知的好奇心は無残にも死に葬り去られる。------そして後世の社会が認め るかもしれない、いわゆる”独創性”なるものも露と消え去る------ああ、自由な研 究費がほしい、ヒアリングの無い研究環境が欲しい、好きなことを好きなだけ、思う 存分できる環境が欲しい!!-------この叫びは、私たち研究者にとって永遠にかな えられることの無いユートピアなのでしょうか? やはり職業として研究をやっている以上、あるいは公的資金に頼っている以上、評価は、あるいは評価を世に問うことは、研究者にとって避けられない事であることは間違いないことだと思います。ここに研究者の社会的使命が問われることになります。
どうやら”独創的な研究とは”を考えている過程で、学問の本質としての”個人の知 的好奇心などのモチベーション”の問題と対峙するかたちで、職業人としての研究者のあり方と、研究費の 配分評価方法の問題が浮上してきました。おそらく現在の日本の公的な研究費、特に 大型の研究費の配分、評価方法に関しては、多くの問題、不満点が有るのではないで しょうか?これからの日本の基礎研究を発展させていくために、至急に現在の研究費 の配分、評価方法を改善する必要があると思っておられるかたは多いのではないでし ょうか?このような観点から、JSI Newsletterでは第7巻1号(通巻12号)で、”日本 の免疫学研究体制の 現状を探る”という特集を組んだことがあります。今の制度を どのように改善したらいいのかという問題と、どのように科学研究の評価したらいいのかという問題は、切っても切れない関係に有ります。そして、これは小安氏のコメント#7、”誰のための科学か?”という自問自答にはじまり、「独創性とは何か」、「独創性をいかに評価するか」という非常に重要で且つ困難な問題から「独創性を育てるには何をすべきか」という問題へと波及していくことになります。
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