看護部の歴史
大阪大学医学部附属病院歴代看護部長氏名と在職期間
歴代 | 在任期間 | 呼称 | 氏名 |
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初 代 | 大正 3年11月~大正 9年 2月 | 看護婦監督 | 吉田政栄 |
第2代 | 大正 9年 2月~昭和21年 2月 | 看護婦監督 | 宇多村ツル |
第3代 | 昭和21年 2月~昭和29年 2月 | 看護婦監督 | 林 友子 |
第4代 | 昭和29年 2月~昭和33年11月 | 総看護婦長 | 松島チヨ |
第5代 | 昭和33年11月~昭和34年 6月 | 総看護婦長 | 尾崎マサヱ |
第6代 | 昭和34年 6月~昭和46年 3月 | 総看護婦長 | 杉野くにゑ |
第7代 | 昭和46年 4月~昭和47年 3月 | 総看護婦長 | 川崎かつ |
第8代 | 昭和47年 4月~昭和52年 3月 | 看護部長 | 太丸 操 |
第9代 | 昭和52年 4月~平成 2年 3月 | 看護部長 | 砂田美津子 |
第10代 | 平成 2年 4月~平成 5年 3月 | 看護部長 | 沖野貞子 |
第11代 | 平成 5年 4月~平成12年 3月 | 看護部長 | 安藤邦子 |
第12代 | 平成12年 4月~平成19年 3月 | 看護部長 | 福岡富子 |
第13代 | 平成19年 4月~平成23年 3月 | 看護部長 | 平山三千代 |
第14代 | 平成23年 4月~令和3年3月 | 看護部長 | 越村利惠 |
第15代 | 令和3年 4月~現職 | 看護部長 | 岩崎朋之 |
「大阪大学 看護教育70年史」より抜粋・加筆
大阪大学医学部附属病院と看護関係の年表
明治元年(1868)12月14日 | 大坂府仮病院の普請落成。 |
明治元年(1868)12月15日 | 仮病院開院。1月19日より官軍兵士らの診療、入院開始。 |
明治 2年(1869) 2月末 | 大阪府下大組内久宝寺町(現大阪市中央区上本町通大福寺内)に政府直轄の仮病院発足。 |
明治 2年(1869) 7月19日 | 鈴木町代官屋敷跡に大坂府病院が竣工し、大福寺内仮病院はここへ移る。 |
明治 2年(1869)11月 | 大坂府医学校病院を創設。 |
明治 3年(1870) 2月28日 | 大坂府医学校病院は大学(文部省の前身)の管轄となる。 |
明治 5年(1872) 9月29日 | 文部省は、学制改革のため第四大学区大坂医学校および病院を廃す。 |
明治 5年(1872)11月25日 | 旧大坂医学校病院の引継がなされる。事務一切と敷地は理学所に、病院関係建物は大坂府に、薬園は博物局に、旧医学校の校舎、解剖場、医学用器機は明治6年2月13日第一番中学の所管となる。 |
明治 5年(1872)秋 | 大坂医学校病院の廃止に際して、府下の有志は病院の再建を大坂府庁に迫り、府は一般人民に布告して賛同を求め、広く設立資金の寄附を募った。これに応ずる者は豪商、寺院、開業医、俳優それに府民など30名に達し、醵金3,224円を集める。 府は冬より西本願寺掛所内に仮病院の修築に着工。 |
明冶 6年(1873) 5月10日 | 府は大阪府病院建営成ったことを布告し、併せて病院規則を公表。また開院の15・16日院内見学を許し、寺院境内での見せ物、諸芸者の興行を許可。 |
明冶 6年(1873) 2月15日 | 西本願寺北御堂(津村別院)構内に大阪府病院を設立、開院式を挙行。 院内は診察局、医局、手術局、薬局、病室48室、講堂を備え、患者150名を収容。 又、教授局が並設され、教授掛と勤怠掛が置かれる。 |
明治 9年(1876) 3月 | 大阪府病院で岡沢貞一郎による産婆教育開始。修業者には産婆営業鑑札を授与。10月産婆学を卒業した者175名(わが国産婆免許の始め)。 |
明治11年(1878) 1月26日 | 大阪府病院を大阪公立病院と改称。公立病院医学教導規則を定め、聴講生を募集。 |
明治11年(1878)10月17日 | 大阪府病院で正変二則に分ち産婆教育を開始。 |
明治12年(1879) 3月 | 大阪府病院では従来の男子看護人を廃し、女子をもって充てる。 |
明治12年(1879) 4月 1日 | 北区常安町旧藝州蔵屋敷跡に病院を新築し、この日開院式を挙行。大阪公立病院と改称す。 |
明治12年(1879)12月 | 変則産婆9名に授業証明書を附与。 |
明冶13年(1880) 3月10日 | 大阪公立病院を府立大阪病院と改称し、教授局を分離して府立大阪医学校と称す(校長:橘 良栓)。 |
明治14年(1881) 2月 | 従来の医学校、病院の規則を改め、職制及び事務章程を作成。 駆黴院を本院附属とする。 |
明治14年(1881)11月 7日 | 府立大阪病院奈良分病院を添上郡奈良下清水町に設立(分院長心得:山本景行)。 |
明治16年(1883)12月 1日 | 府立大阪病院奈良分院を同地登大路町旧師範学校跡へ移転すると告示。 |
明治20年(1887)11月11日 | 大阪府より奈良県が分離したため、大阪府立病院奈良分病院を廃止。 |
明治21年(1888) 1月31日 | 府立大阪病院を廃し、府立大阪医学校を大阪医学校と改称し、校中に教授部・病院を置く。職制章程その他諸規則を改正。病院内に施療病室を設け、郡区長の証明ある貧困者50名に限って人院を許し治療することになる。従来の職員は同日廃職。 |
明治24年(1891) 8月10日 | 職制章程併に病院職制章程を改正。 |
明治25年(1892) 4月 | 病院内に看護学講習所を設け、看護婦志望者30名を募集。 |
明治26年(1893) 3月 | 柳 琢蔵が中心となり、大阪医学校に産婆養成所を附設し規則を設く。 |
明治26年(1893) 5月18日 | 日本赤十字社大阪支部の委託により、日本赤十字社看護婦養成所を本校内に併設。 |
明治27年(1894)10月 | 前年より建築中の新校舎及び病院のうち講堂、教場、標本室、図書室、実験室、病院一等病館、手術室、浴室、内科診療室、精神病館竣工。 |
明治31年(1898) 4月 | 本校附属看護婦養成所を設立。 |
明冶33年(1900)11月 | 医学校病院では、元資金より1万3千円を支出して、蒸気機関及び発電機を新設し、自用に電燈を点じ、病院各診療所、患者控室並びに事務室等へ暖房管を敷設し、浴場、消毒所・賄所等総て蒸気を使用するよう設備する。 |
明治34年(1901) 6月 3日 | 本校を大阪府立医学校、同病院を大阪府立医学校病院と改称。 |
明治35年(1902) 2月31日 | 附属産婆養成所廃止。 |
明治36年(1903) 9月12日 | 大阪府立医学校、医学専門学校と改称。 |
明治43年(1910)11月 1日 | 病院新築竣工式を挙行、京阪神の関係者800名が臨席。工費53万円、建坪6,500坪、構造は病院建築条例が施行されているドイツを範として、一院内各科分立制を採用。 |
大正 4年(1915) 2月29日 | 院内東本校東南隈楼一学用患者総控室より失火、一部焼失。 |
大正 4年(1915) 3月 | 大阪府立高等医学校附属産婆養成所を開設。 |
大正 4年(1915)10月28日 | 大阪府立高等医学校を府立大阪医科大学と改称し、同日、本大学学則を改正。 |
大正 6年(1917) 2月19日 | 病院本館第2号館3階より失火、病院3,000坪を焼失、更に大学校舎、民家、大学本部予科教室を焼いて鎮火。類焼をまぬがれたのは病理・解剖・生理等4棟と講堂・教室の計6棟。438名の入院患者全員無事救出、器機・書籍の大部分を搬出した。 避難患者は翌日市内各病院に収容、翌々日より病理学教室を仮病院として外来患者の診療を開始、学生の授業も同様続行。 |
大正 7年(1918) 4月12日 | 府立大阪医科大学予科校舎敷地は豊能郡石橋待兼山に決定。 |
大正 7年(1918) 5月 | 北区常安町焼跡に大阪医科大学仮病院が完成、同日開院式を挙行。建坪5,769坪、本館木造二階、病室木造平家建、建築費19万7000円余。 |
大正 7年(1918) 6月15日 | 堂島浜通の敷地に附属病院本館起工(工費160万円)。 |
大正 8年(1919)11月22日 | 府立大阪医科大学を廃し、大学令により大阪医科大学の設置を認可。病院もこれに準じ大阪医科大学病院と改称。 |
大正10年(1921) 2月18日 | 三重県志摩郡和具村有地・山林8,680余坪の寄付を受け、翌年12月府会で臨海実験所設立認可。 |
大正11年(1922)12月 | 大阪府会において、大学本部、教室の改築及び病院看護婦宿舎、和具の臨海実験所の新築の予算案可決。 |
大正12年(1923) 9月 | 関東大震災被災者救援のため救護班3班を編成し、小沢凱夫・黒津敏行らを班長として東京・横浜へ派遣。 |
大正13年(1924) 3月 1日 | 大阪医科大学病院新築落成式挙行。 |
大正13年(1924)10月 1日 | 大阪医科大学病院を大阪医科大学附属医院と改称。大阪病院規則を廃し、附属医院規則を制定。大学本部並に附属医院処務細則を制定実施。 |
昭和 2年(1927) 1月 | 旧病院跡(常安町)に医科大学校舎竣工。 |
昭和 4年(1929) 7月 1日 | 附属医院では、懸案中の政府との契約の健康保険に関する診療事務を開始。 |
昭和 6年(1931) 3月31日 | 大阪医科大学廃止。 |
昭和 6年(1931) 4月28日 | 大阪帝国大学官制公布、医学部・理学部を設置し、医学部に24講座が置かれる(勅令第67号)。 (解剖学第一、同第二、同第三、生理学第一、同第二、生化学、薬理学、病理学第一、同第二、細菌学、衛生学、法医学、内科学第一、同第二、同第三、小児科学、皮膚科学泌尿器科学、精神医学、理学的診療学、外科学第一、同第二、産科学婦人科学、眼科学、耳鼻咽喉科学) |
昭和 6年(1931) 6月 6日 | 泉尾出張診療所開所式挙行、8日より内外科・小児科・眼科の診療開始。同所では泉尾三軒家・市岡・築港・九条第2方面地域の無産市民の利用を要望。新聞は「大学病院が愈々無料診療へ進出」と報道。 |
昭和 7年(1932) 6月24日 | 附属医院分院を石橋に新築し、開院式挙行。7月1日より診療を開始。分院は神経性患者、慢性疾患または各種疾病の回復期にあるもの、その他郊外に転地を要するもののため市北郊旧予科敷地を選定(分院長:和田豊種)。 |
昭和13年(1938)12月 | 医学部附属医院新館(東病館)竣工(昭和10年4月起工:勅令第631号)。 |
昭和19年(1944) 7月19日 | 医学部学友会附属女子厚生学校設立認可。 |
昭和19年(1944)10月 5日 | 石橋分院を閉鎖。 |
昭和20年(1945) 6月 | 医学部附属医院看護婦養成所を医学部附属医院厚生女学部と改称。 |
昭和22年(1947) 7月 1日 | 石橋分院が占領軍より医学部に返還され、内科・外科・精神科・眼科・産婦人科の5診療科、115床で再開院(分院長:堀見太郎)。 |
昭和22年(1947) 9月30日 | 大阪帝国大学は大阪大学と改称(政令第204号)。 |
昭和24年(1949) 5月31日 | 国立学校設置法(法律第150号)公布され、学制改革による新制国立大学69校を各都道府県に設置。 これに伴い大阪大学は文・法経・理・医・工の5学部からなる新制大学として発足。 また、旧制大阪高等学校、浪速高等学校を吸収して一般教養部(南校、北校)とし、私立大阪薬学専門学校を吸収して医学部薬学科を設置。この時大阪薬学専門学校在学生を収容するため、別に附属薬学専門部を附置(昭和26年3月全員卒業し、専門部は消滅)。 医学部附属医院及び附属医院分院を同附属病院・同附属病院分院と改称。 |
昭和26年(1951) 4月 1日 | 医学部附属病院厚生女学部を大阪大学看護学校と改称。 |
昭和27年(1952) 3月31日 | 医学部に助産婦学校及び診療エックス線技術学校附設。 |
昭和34年(1959)11月 | 附属病院では基準看護実施強化のため、基準看護委員会発足。 |
昭和36年(1961) 7月13日 | 附属病院耳鼻科宿直室の天井コンクリート塊落ち2名負傷。病院の老朽化が明らかになり、8月に病院改善懇談会発足。 |
昭和36年(1961) 9月16日 | 第二室戸台風により、医学部・附属病院・微研・蛋白研・理学部、附属図書館中之島分館等浸水。 |
昭和37年(1962) 8月28日 | 10ヶ年計画による附属病院病棟の増改築工事起工式を挙行。 |
昭和38年(1963) 4月 1日 | 大阪大学看護学校を大阪大学医学部附属看護学校と改称。 |
昭和39年(1964) 3月 | 本院改築第1期工事(病棟12,209.977m2)が完成した。 |
昭和40年(1965) 9月 | 本院改築第2期工事の起工式が行われた。 |
昭和41年(1966)12月 | 本院改築第2期工事(病棟16,723.377m2)が完成した。 |
昭和42年(1967) 3月20日 | 附属病院病棟改築竣工式挙行(昭和37年度より着工し、昭和39年一部完成、その残余と特殊救急部が完成。病床約1,000床)。 |
昭和42年(1967) 6月 | 大阪大学医療技術短期大学部を設置した。 |
昭和43年(1968) 4月 1日 | 医学部附属病院石橋分院は3月末日をもって閉鎖し、本院に合併(文部省令第12号)。 |
昭和44年(1969) 4月 | 大阪大学医療技術短期大学部設置後の学年進行に伴い看護学校及び診療エックス線技師学校が廃止された(文部省令第18号)。 |
昭和45年(1970) | 医学部附属病院では主任看護婦長のもとに病棟看護婦長が位置づけられた。 |
昭和45年(1970)10月 | 本院改築第3期工事(診療棟14,320.751m2)が完成した。 |
昭和48年(1973) 8月 | 本院改築第4期工事(診療棟16,991.237m2、車庫守衛棟等468.720m2)が完成した。 |
昭和48年(1973)11月10日 | 附属病院改築竣工式挙行。 |
昭和49年(1974) 4月 | 附属病院の副総看護婦長が2名制 (総務担当、業務・教育担当) から3名制となり、総務・業務・教育を各人が独立して担当するようになる。 |
昭和51年(1976) 4月 | 附属病院に看護部制がしかれ、総看護婦長が看護部長に、副総看護婦長が副看護部長に各々呼称が変更することになった。 |
昭和51年(1976) 5月 | 附属病院に看護部が設置された(文部省令第18号)。 |
昭和57年(1982) | 附属病院看護部では、現任教育の強化・充実の必要性から全国の大学病院に先駆けて教育担当副看護部長の下に教育担当副看護婦長を配置した。 |
昭和63年(1988) 5月23日 | 医学部・同附属病院吹田移転建設工事起工式挙行。 |
平成元年(1989) 3月 | 吹田市山田丘において病棟等の新築工事を着工した。 |
平成 5年(1993) 6月 | 医学部の吹田地区への移転完了。移転と同時に微生物病研究所附属病院と統合された。 |
平成 5年(1993) 8月28日 | 医学部・同附属病院竣工式挙行。 |
平成 5年(1993) 9月 1日 | 新病院が開院。 看護部では病棟と外来を統括して管理していた主任看護婦長を病棟のみの管理責任者として病棟看護婦長とし、外来の管理責任者を外来看護婦長とした。病棟看護婦長の呼称は副看護婦長に変更された。 |
平成 5年(1993)10月 | 医学部に保健学科が新設。 |
平成 6年(1994)11月 | 新病院が特定機能病院に承認された。 |
平成 7年(1995) 1月17日 | 午前5時46分頃、兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)発生。医学部・同附属病院も多大な建物被害を受ける。患者・職員とも大きな人的被害はなかった。 当日より重症被災者の受け入れと共に、被災地へ医師・看護婦の派遣を開始。3月31日までに延べ678名(医師324名・看護婦143名・薬剤師55名・臨床検査技師6名・医学生150名)が現場で救護活動を行なった。 |
平成 8年(1996) 3月31日 | 大阪大学医療技術短期大学部が閉学された。 |
平成 9年(1997) 3月31日 | 大阪大学医学部附属助産婦学校が閉校された。 |
平成10年(1998) | 臨床治験事務センターコーディネート部門に専任の看護師を配置した。 |
平成13年(2001) | 日本医療機能評価機構よりVer4.0の認定を受けた。 保健医療福祉ネットワーク部コンサルテーション部門を設置し、専任の看護師を配置した。 クオリティマネジメント部に専任リスクマネージャーとして看護師を配置した。 |
平成15年(2003) | 当院で最初の専門看護師が誕生した。 未来医療センター設立に伴い、専任看護師を配置した。 輸血部へ、自己血採血を実施する専任看護師を配置した。 移植医療部設立に伴い、レシピエント移植コーディネーターとして専任看護師を2名配置した。 緩和ケアチームの結成に伴いがん看護専門看護師を配置した。 |
平成16年(2004) | 感染制御部に感染管理認定看護師が配置された。 国立大学法人法(法律第112号)の交付に伴い、大阪大学が国立大学法人大阪大学に改められた。 看護部キャリア開発センターを設置し、広く院内外の看護師への専門分野別教育を開始した。 糖尿病ケア・看護外来に専任の看護師を配置した。 |
平成17年(2005) | 外来化学療法室開設に伴いがん看護専門看護師を専任で配置した。 血液浄化部において、血液透析看護にあたる看護師を専任で配置した。 |
平成18年(2006) | 日本医療機能評価機構より最新基準(Ver5.0)の認定を受けた。 看護部長が副病院長に任命され、副看護部長が3名から4名(総務、業務、安全、教育)体制となった。 移植医療部のレシピエント移植コーディネーターとして専任の看護師を4名に増員した。 |
平成19年(2007) | 特定機能病院入院基本料「7対1」算定ができる看護師の体制が整った。 |
平成20年(2008) | オンコロジーセンターが設置され、がん看護専門看護師を副センター長として配置した。 二交替制勤務の導入を開始した。 |
平成22年(2010) | 皮膚排泄ケア認定看護師によるスキンケア外来を開設した。 |
平成23年(2011) | 日本医療機能評価機構より最新基準(Ver6.0)の認定を受けた。 3月11日午後2時46分 東日本大震災発生、被災地へ医療チーム(医師・看護師・事務職員)の災害派遣を行った。福島第一原子力発電所の医療支援として看護師の派遣を行った。 看護師長の当直制勤務を廃止した。 夜勤専従の勤務を導入し、多様な勤務が選択できる環境を整えた。 |
平成24年(2012) | 新たな看護単位としてCCU6床を開設し看護師を配置した。 精神科リエゾンチームが発足し活動を開始した。 職務満足度調査を開始した。 |
平成25年(2013) | PNS(パートナーシップ・ナーシング・システム)の考え方に基づくパートナー制を導入した。 従来の三交替制勤務から二交替制(夜勤16時間)を全ての病棟で導入した。 |
平成26年(2014) | ロボット支援手術を導入した。 管理担当副看護師長を設置し、副看護師長3人体制(管理・教育・実践)を開始した。 情報担当専従看護師を看護管理室内に専従で配置した。 |
平成27年(2015) | 臨床研究中核病院として厚生労働省から承認された。 オンコロジーセンター棟が完成した。 リフレッシュ休暇を導入した。 |
平成28年(2016) | 病院機能評価機構から基準(3rdG:Ver1)による認定を受けた。 外国人患者受入医療機関認証制度(JMIP)の認証を受けた。 ナーシング・スキル日本語版を導入した。 看護記録の質的監査を開始した。 勤務管理システムとしてCWSを導入した。 |
平成29年(2017) | 従来のICUを高機能ICUへリニューアルし増床した。 専門看護師・認定看護師の横断的な活動拠点である専門看護室を設置し専従者を配置した。 |
平成30年(2018) | がんゲノム医療中核拠点病院として厚生労働省から承認された。 一部の病棟で入院前支援を開始した。 病棟再編によりグループ制を導入した。 高度救命救急センターで夜勤短縮(12時間勤務)の施行を開始した。 看護補助者の特例常勤での雇用を開始した。 |
平成31年・令和1年(2019) | 緩和医療センターが開設され専従者(3名)を配置した。 民間病院(1病院)との人事交流を開始した。 呼吸ケア・看護外来を開設した。 退院前訪問を開始した。 |
令和2年(2020) | ドクターカー・DMATカーを導入した。 看護師特定行為研修を開始した。 リンパ浮腫・看護外来を開設した。 COVID-19重症患者の受入を開始し、大阪コロナ重症センターへ看護師の派遣を開始した。 |
令和3年(2021) | 全ての病棟で12時間勤務を導入した。 小児医療センターの一元管理を開始した。 医学部保健学科と病院看護部のユニフィケーションに向けた取組を開始した。 民間病院との人事交流を新たに1施設追加した。 |
令和4年(2022) | 看護記録をNANDAから標準看護計画に変更した。 病棟再編グループのリーダー看護師長による定例ミーティングを開始した。 看護部の理念の部分改定(高度先進医療を先進的で高度な医療)を行った。 出退勤管理として打刻システムを導入した。 ICUの一元管理を開始した。 看護部キャリア開発センターに専従看護師長を配置した。 CVOVID-19軽症・中等症患者の受入を開始し東3階病棟を専用病床へ変更した。 |
令和5年(2023) | 専門看護師、認定看護師、特定行為研修実践者へ手当を新設した。 夜間に派遣の看護補助者を導入し、夜間100対1急性期看護補助体制加算の算定を開始した。 |
令和6年(2024) | マネジメント・ラダーを試行的に導入した。 病棟の繁忙度を数値化し応援体制や入院調整に活用を開始した。 |