教授リレーエッセイ

境界領域 耳鼻咽喉科学 猪原 秀典

耳鼻咽喉科学
教授 猪原 秀典

多くの診療科において他科と色々な意味で競合する境界領域が存在しますが、 ここでは医科と歯科との境界領域についてご紹介します。医科の中で特に歯科 との境界領域が問題となるのは形成外科と耳鼻咽喉科です。形成外科では唇裂 口蓋裂、耳鼻咽喉科では口腔癌、嚥下障害などが、歯科の診療科である口腔外科 との間で問題になっている境界領域の疾患に相当します。

ところで、皆さんは頭頸部外科という言葉をお聞きになったことはあるで しょうか。口腔外科と違って聞き慣れない言葉と思います。頭頸部とは英語の head and neckの訳語で、首から上の構造の総称です。頭(あたま)というと 日本語では脳と頭蓋骨を連想しますが、英語のheadという言葉の意味には顔面や 口腔、鼻腔、眼球なども含まれており、首よりも上の全てを指します。また英語の neckも日本語の首だけでなく、その中の構造物である、咽頭、喉頭、気管、頸部 食道も含みます。頭頸部領域の疾患の治療は手術が主体となりますが、頭頸部の中でも脳は脳神経外科が、眼球は眼科が、歯は歯科が担当しますので、頭頸部 外科は実際には脳、眼球を除いた頭頸部の良性・悪性腫瘍、外傷、奇形などに 対する手術を担う分野です。この頭頸部外科は基本的に耳鼻咽喉科が担当します ので、近年では耳鼻咽喉科から耳鼻咽喉科・頭頸部外科へと呼称が世界的に変化 してきています。頭頸部外科が扱う主要な疾患が頭頸部癌であり、頭頸部癌は 鼻・副鼻腔、咽頭、喉頭、口腔、耳、唾液腺、甲状腺に発生する癌の総称であり、 舌癌などの口腔癌は頭頸部癌の一部ということになります。

口腔癌の治療は誰が行っているのでしょうか。日本では医師である耳鼻咽喉科・ 頭頸部外科と歯科医師である口腔外科の両者が行っています。歯科医師も口腔 内の手術だけでなく、頸部の手術も行い、更に形成外科の専門領域である前腕 皮弁などを用いた再建手術も行い、抗癌剤も扱っています。では、海外の状況は どうでしょうか。昨年、日本口腔咽頭科学会がアンケート調査の結果を発表 しましたが、それによると殆どの国では口腔癌は医師のみが扱っています。 米国の一部の州では歯科医師も口腔癌を扱っていますが、口腔内の手術のみ 行っています。例外的に韓国が日本に近い状況ですが、抗癌剤は扱っていません。 日本では何故このように海外の状況と比べ突出して異なっているのでしょうか。 先ず、歯科医師が取り扱ってよい領域を法的に定めていないことが理由にあります。 平成8年に厚生省の主導で医師会、歯科医師会による口腔外科の診療領域に ついての検討会が行われ、“口腔外科は原則として口腔のみを扱うが、口腔癌の治療に際し頸部手術や再建手術を行ったり、抗癌剤を扱う際には適切に 医師と連携を取ること”が定められましたが、法的な拘束力はありません。 また、歴史的に歯学部は医学部から派生しており、当初の口腔外科医は医師で あったことも背景にあると思われます。

さて、皆さんは耳鼻咽喉科頭頸部外科と歯科口腔外科の競合について、どのような 感想をもたれたでしょうか。両科の競合により患者様に不利益が降りかかることが あれば、それは極めて愚かしいことです。最も大切なことは患者様にとってより 良い医療が提供されることです。情報開示を徹底し、両者の長所を合わせてより 良い医療を患者様に提供することが最も大切です。大阪大学歯学部の初代学長は 耳鼻咽喉科の大先輩にあたる弓倉繁家先生であり、歴史的に当科と歯学部は 縁戚関係にあります。大阪大学は国立総合大学の中で歯学部が創設された最初の 大学でもあり、大阪大学がこの境界領域の問題について何らかの回答を出すべき かもしれません。

教授 猪原 秀典
脳神経感覚器外科学 耳鼻咽喉科・頭頸部外科学
当研究室は、明治39年(1906年)大阪府立高等医学校に耳鼻咽喉科が創設されたことがその始まりであり、100年を超す長い歴史と伝統があります。耳鼻咽喉科の診療領域は、めまい平衡、難聴、鼻・副鼻腔、頭頸部腫瘍、音声・嚥下など多岐にわたりますが、その多くの分野で日本をリードする人材を輩出してきました。