教授リレーエッセイ

診療録は科学的記録? 医療情報学 松村 泰志

医療情報学
教授 松村 泰志

私が医療情報に本格的に関わるようになったのは、1993年の新病院での病院情報システム導入の時からであった。当時は、オーダエントリシステムが中心であり、業務を合理化することが主な目的であった。はたして、これが医学にとってどのような意味があるのかと疑問に思うことはあったのだが、思い悩んでいる暇はなかった。いつか診療録を電子化できれば、幾分、医学へ貢献できるのではないかと漠然と考えていた。

それから17年の時が流れ、阪大病院で完全ペーパレスの電子カルテを実現させた。ここに至るにはかなりの苦労があったものの、今のところ、電子カルテが医学の発展に大いに貢献している状況にはなっていない。きちっとデータが入力されていれば、そのデータを抽出できるので、多少、それぞれの先生の臨床研究に役立ってくれるとは思っている。

1968年、Lawrence L. Weedは、当時の診療録は科学的な記録とは言えないと主張し、Problem Oriented Medical Recordの概念を提唱した。この考え方は、広く共感され、日本でも支持を得て広まった。しかし、現在の診療録が、科学的記録になったようには思えない。診療録が科学的記録であるべきとの彼の主張には多くの共感が得られたものの、結局、彼の提唱した方法は、現実的で効果的な方法になり切れなかったのではないだろうか。では、診療録が科学的記録であるためには、どうあるべきなのだろうか。

先日、遺伝学の研究をしている友人に会い、ゲノム解析技術の話しを聞いた。この技術の進歩は目覚ましく、比較的安い費用で、個人の全ゲノムを解析できる時代が間もなく到来するとのことであった。このことは、医療に大きな変革を生む可能性がある。病気は、体質に環境要因が加わって発生すると考えられるが、体質の情報が明確になることにより、環境因子も明確になってくると期待でき、当然、病気の発生を未然に防ぐことに、より注力されることとなるはずである。しかし、遺伝的多型と病気の発生との関係、更に環境因子の影響、また、治療効果や 薬の副作用発現などの関係を明らかにするためには、ゲノム情報とその個人の発生事象に関するデータの組みが大量に必要となる。前者は、精密な情報として大量に得られる可能性がでてきたので、後者についても同じように正確で漏れのない情報を収集することが重要となる。この観点で見ると、診療録は、病気の発生、治療内容、治療に対する効果、副作用の発現について、正確な情報を、生涯を通じて記録されたものである必要がある。しかし、現実の診療録を見ると、一医療機関での記録に閉じており、詳しい情報はあるものの、重要情報が日々のデータの中に埋もれてしまっている。薬の副作用情報も抜けが多い。要するに、何もできていないのである。

しかし、診療録が電子化されたことにより、科学的な記録となる道が少し見えてきたようにも思う。診療データベースから重要な情報を抽出し、ネットワークを利用して、外部の健康情報管理センターに送るなどで、個人の生涯記録を作ることが技術的には可能となってきた。このようなデータベースができ、解析に利用できるようになれば、ゲノム情報との相関分析だけでなく、個々の体質、状況毎の集団での治療評価などが可能となり、テイラーメイドメディスンの礎になるはずである。

かつて目標としてきた診療録の電子化は、診療録を科学的記録にするためのほんの入り口に過ぎなかったようである。

教授 松村泰志
情報統合医学講座 医療情報学
当研究室は1987年に開設され、初代:井上通敏教授、二代:武田裕教授を経て、現在に至ります。当研究室の教官が附属病院医療情報部を併任し、阪大病院の情報システムを担当しています。また、ゲノム情報共同研究講座を立ち上げて、医療情報とバイオインフォマティクス(Bioinformatics)を連携させた、次世代の医学研究基盤の構築を目指しています。