円空仏に思う 生体物理工学講座 福地 一樹
江戸時代の僧侶・仏師である円空の作品(円空仏)を鑑賞するため、12月の飛騨高山を旅した。円空(1632-1695)は全国を行脚しながら生涯に10万体以上の仏像を彫ったが、特に後期の作品が岐阜県飛騨地方に数多く残されている。円空仏は、その素朴で優しい表情が特徴で、誰でも一度はどこかで見たことがあるだろう。粗削りな一刀彫で作られ、金箔や漆などの装飾は無い。また、巡礼や布教のために多数の仏が庶民に配布されたため、一点ごとの希少価値が低く、文化財としての価値はこれまであまり高くはなかった。しかし、近年になり、その独特な造形美、特に素朴で力強い表現が、現代アートや民芸運動の観点から再評価されるようになっている。そんな中、円空仏の中でも有名な十一面千手観世音菩薩を含む「円空仏三体」を拝見するため、雪のちらつくなか、高山市郊外の清峯寺を訪ねた。
インバウンドの観光客で賑わう高山市中心街とは対照的に、山間の清峯寺は訪れる人もほとんどいないひっそりとした無住寺であった。仏像を管理されている地元有志の方にわざわざ来てもらい、保管所の鍵を開け、「円空仏三体」を拝ませてもらった。手の届く距離に鎮座する十一面千手観世音菩薩の穏やかなお顔のなんとも言えぬ愛らしさに引き込まれる一方で、両脇に安置されている竜頭観世音菩薩と聖観世音菩薩の凛とした立ち姿は、主役の千手観世音菩薩に勝るとも劣らない素晴らしいものであった。
凍える空気の中、円空仏と無言で対峙すると、柔和で慈悲に溢れた仏たちのお顔と、厳しい飛騨の冬景色が、相反するようでいて、どこか融合し、何とも不思議な取り合わせに感じた。飛騨の厳しい自然環境の中で円空が仏像を彫り続けた理由は、凡人の私には知るよしも無いが、円空は厳しい自然環境が自身の精神的・肉体的な修行に適していると感じたのだろう。厳しい生活による内面的成長と自己浄化は、平穏と自然との一体感を産み出し、それが円空仏に宿っているように思われた。
高山旅行の数カ月後、阿倍野にある美術館で催された円空展に赴いた。都会で気軽にまとまった数の円空仏を鑑賞できるのは有り難かったが、高層ビルの16階で会う仏たちはなんとなく居心地悪そうにしていた。自然と信仰心の融合が必然だった円空仏は、その土地で鑑賞することにこそ、価値があると感じた次第である。