教授リレーエッセイ

加藤貞武先生から残された宿題 保健学専攻 医療技術科学分野医用物理工学講座 井上 修

保健学専攻
医療技術科学分野医用物理工学講座
教授 井上 修

私の手元にマダムキューリーが長年ソルボンヌ大学で講義された内容を 集大成した著書「Radioactivite」の邦訳版(放射能:昭和17年発行)がある。 訳者序文の中で、彼女の研究が原子核物理学の母体となっている事と同時に、 当時既にサイクロトロンで生成される人工放射性物質が医学・生物学分野に 利用されている事が述べられている。

実はこの邦訳版は故加藤貞武先生の遺品である。加藤貞武先生は我が国の 核医学の発展に先駆的かつ多大な貢献をなされた先生で、京都帝国大学薬学科の 助教授から製薬企業の研究所長に転身され、昭和36年には放射性医薬品を 安定的に供給するために「ダイナボットRI研究所」を設立された。 筆者は1981年から放射線医学総合研究所(放医研)において、 PETイメージングの研究に主にプローブの開発・評価の担当として携わってきた。 当時この分野における欧米諸国の関心はヒト脳の情報伝達系を何とかして 画像化することにあった。

放医研においても、多くの課題を手探りの状態で進めた結果、 ベンゾジアゼピン受容体の臨床研究にこぎ着ける事が出来たのが1984年の頃である。 その頃加藤先生が突然放医研にお見えになり私を会食に誘って頂いた。その席で私に 米国のWagner教授のもとに留学する意思があればそのように手配して頂けるとの誠に ありがたいお話があった。

Wagner教授はご自身のドーパミン受容体を初めて画像として取得した高名な先生である。 留学の話とは別に私は一つの宿題を仰せつかった。それは加藤先生が昔製薬企業の 研究所長をされていた頃の出来事である。エフェドリンにはd,lの2つの光学異性体が あるが、光学異性体の分離法が確立できたので活性型を分離してみたところ、 臨床的な効能が従来のラセミ体を使用していた頃と比較するとかなり劣る事が 判ったとのこと、また思案を重ねた結果微量の不活性型を混入すると臨床効果は もとのレベルまで回復したとの御経験をお話された。 宿題というのはこのような現象の機序をPETの技術を使って明らかにしてほしいとの 依頼であった。

あれからずいぶんと時間がすぎたが、最近類似の現象として極微量のオピオイド拮抗薬を 混入するとモルヒネの鎮痛作用を逆に増強する事実が明らかになってきた。加藤先生からはもう一つ宿題を与えられたが、2つ共解決に至らず未だに考えあぐねている。