教授リレーエッセイ

創造性の源 脳生理学 北澤 茂

脳生理学
教授 北澤 茂

自閉症の少女、ナディアが描いた絵をご覧になったことはあるだろうか。今にも動き出しそうな牛、跳躍する馬、などが折り重なるように画面に描かれている。言葉のない5歳の少女が描いたとはにわかには信じがたい見事な絵である。

イギリスの心理学者ニコラス・ハンフリーは、ナディアの絵がラスコーやショーべの洞窟壁画とよく似ていることに注目した。進化人類学の世界では、洞窟壁画を描いた1万年以上前の人類は、今の我々と同じ「高度な」認知能力を持っていたと考える。洞窟壁画の写実的な描写がその証拠だという。しかし、ハンフリーは言う。当時の人類は「言葉」を持たないがゆえに、ありのままの「牛」や「馬」を描くことができたのだ、と。実際、ナディアは言葉を持たずにすばらしい絵を描いたし、言葉を学ぶとともにむしろ絵を描かなくなったというから、言葉が描画の妨げになるという主張には説得力がある。

私は「犬の絵を描いて下さい」と言われても、横から見た構図のいかにも稚拙な絵しか描けない。しかしこれは、私が悪いのではない。ハンフリーの説に従えば、「犬」という言葉のせいなのだ。「犬」という言葉に結び付いた「定型的な犬」の像が私の手を縛るのだ。

言葉の呪縛から逃れて、創造性豊かな絵を描く手立てはないものだろうか。実は、とっておきの方法が報告されている。オーストラリアのシュナイダーによれば、左の前頭葉に1秒に1回程度の頻度で20分ばかり磁気刺激を当てて、その機能を抑えると効果覿面だそうだ。それまで横向きの絵しか描けなかった参加者が、にわかにナディアのような斜めから見た立体的な構図の絵を描き始めたという。(但し、その30分後には元通り横向きの絵に戻ったということだ。)

シュナイダーの研究は創造性の脳研究に関して二つの問題を提起する。一つは、言語野を含む左前頭葉の支配は、描画以外の場面でも創造性の妨げになっているのか、ということ。陳腐なアイデアしか思い浮かばない時、磁気刺激装置を使って左前頭葉の支配から脳を解放すると、すばらしいアイデアが浮かぶのだろうか。二つ目は、まさにそのような能力増強の目的に磁気刺激装置を用いてもよいのか、という倫理的な問題である。いずれにしても、我々の脳には思いがけない創造性を発揮する潜在力が秘められている、と信じるのは悪いことではない。あとは引き出すだけ、である。

教授 北澤 茂
生理学講座 脳生理学
生理学講座・脳生理学教室は1931年に設置された生理学第一講座を引き継いでいます。柳田敏雄名誉教授(在任1996年から2010年)の後任として、2011年に北澤が着任しました。